All Falls Down

乗り換えの電車を待っていた。僕が立っていたホームの中央付近には、備え付けの蕎麦屋があった。外の券売機で食券を買い、それからドアを開けて入るタイプのJRによくある駅の蕎麦屋だ。店から流れ出る匂いが否応なく午後1時の僕の空腹中枢を刺激するが、次の乗車のタイミングを考えると、とても食べて出てくる程の余裕はない。そんな僕の葛藤などは知るはずもない中年男が、すでに財布の中の小銭を確認しながら券売機に近づいてくる。ウィンドブレイカーとジャンバーの境界線を綱渡りしているような、どこで売っているのか分からない服を着て、背はけして高くなく、頬はこけており、顔の半分はあろうかという勢いのレンズがはまった金縁メガネが真ん中で光っている。咄嗟に、高度経済成長期の燃えカス、といった意味不明の言葉を僕に連想させたその彼は、ナイスミドルとは言いがたく、むしろオヤジと呼ぶにぴったりで、僕のおぼろげな記憶の中にある「オールスター家族対抗歌合戦の審査員、故・近江敏郎氏」に気持ち顔が似ていた。彼が券売機の前に立ち、すでに慣れた手つきで小銭を入れ、迷いもなく発券ボタンを押した、次の瞬間だった。遥か遠くに見えた当駅通過の特急電車が轟音と共にもの凄いスピードで接近し、あっという間に目の前を通り過ぎて行った。通り過ぎた後には、ワンテンポ置いて突風が襲ってくる。最大瞬間風速は台風直撃レベルをゆうに超え、その駅は一瞬のうちに暴風地帯へと姿を変えた。

通過列車と突風に気を取られていると、なにやら僕の右の視界の端っこにある風景がガチャガチャと目にうるさい。何かと振り向くと、さっきの”近江”が、蕎麦屋の暖簾をくぐらずに、あたりを忙しなく動き回っている。キョロキョロと足元を見渡したり、黄色い線の外側に身を乗り出して注意深く線路を凝視したりと、おそらくは”何か”を探しているようだった。どうしようもなく無軌道で、且つこれ以上なく機敏な動きを量産し続ける”近江”の姿は、あたかもニワトリのモノマネをするコロッケかのようで、僕に頬の内側の肉を食いしばりながら震えることを余儀なくさせたが、同時にある考えを僕の脳裏に導き出した。

食券を吹き飛ばされたんじゃないのか。

買ったばかりの食券を、さっきの通過電車の突風で吹き飛ばされてしまったんじゃないのか。いや、そんな不運とドジを兼ね備えた人間がいるのか。なにか気の毒になって一応、僕の周りを見回してみるも、食券らしきものはどこにも見当たらない。まさか、いくら”近江”といえどもさすがにそこまでドジじゃねえだろ、と考え直したが、そうこうしてるうちに、ついに”近江”が地面に這いつくばって例の券売機の下に手を突っ込むという、まさに恥じも外聞もかなぐり捨てた大技を披露し始めた。なんかもう爆発寸前の火薬庫のような気分だった。続けざまに、券売機の下から引き抜いた”近江”の手がすげえ真っ黒になってたのが、執拗に僕の核ミサイルの発射ボタンを押す。もう駄目だと思ったとき、ようやくやって来た目当ての電車に逃げるように乗り込むと、”近江”もまた、電車にも乗らず、勿論蕎麦屋にも入らず、逃げるようにその場から消えていった。発車後、もう我慢できずに吹き出したら、車内はなにかいきなり一人で笑い始めた僕がヤバイ奴みたいな空気だ。違う、違うんだ。俺じゃなくて近江が、と心の中で繰り返すも、車内の誰の心にも届くハズもなかった。