見えない恐怖

看板とは、そこを通る人に対して何かの宣伝をしたり、あるいは特別必要な注意を促したり、そういうなんらかの情報を伝達するために立てられるものだと思う。



というのも、近所にて、とある看板を目にしたのである。ベニヤ板に厚紙が貼られ、その上にラップのようなもので防水加工がしてあるという極めて陳腐なつくりであったが、それが看板であることに間違いは無いようだった。少なくとも、僕の目には看板以外のものには見えなかった。それには、白地に黒のワープロ打ちでこう書いてある。



「滑り止め 砂」



ただ、それだけだ。宣伝も注意もなく、勿論なんの説明もなく、問答無用の感すら漂うほどに、ただただ「滑り止め 砂」とだけ書いてある看板がそこにはあった。



僕は、思いがけず日常に潜むミステリーに遭遇し、その看板の前でしばし呆然とした。コレは一体なんなのだろうか。「滑り止め 砂」とはどういう意味なのか、いきなり理解できないのが困る。いや、理解させないのが恐い。看板なのに見る者の理解を拒むとは何事か。あたりを見回しても、「砂」そのものが見当たらないし、どこを取っ掛かりにして理解すべきかすら分からなかった。そもそもの意味、そして、一体誰が立てたのか、何のために立てたのか、「滑り止め 砂」は、その何もかもが謎だった。



意味の分からない看板は、その存在意義さえ危うい。なにしろ看板なのだから、情報伝達の能力が無ければ、それはただのゴミ同然である。むしろゴミそのものだと言ってしまっても過言ではない。あれはゴミだ。ああよかった。などと笑って済ませられる事態ではない。



「滑り止め 砂」と書かれた看板が確かに看板として存在しているということは、それはつまり、「滑り止め 砂」だけで、その意味を理解できるという常軌を逸した連中が実在しているということである。そんな、いわば秘密結社やカルト教団にも似た謎の集団が、この日本のどこかに、というかウチの近所に、今も息づいている。「滑り止め 砂」は暗にその事実を示唆するために立てられたのかもしれない。そう思うと、僕は、見えない恐怖にただただ怯えることしかできないのだった。