更新報告を更新報告する顔で書く



風呂に入っていた。湯船の中で立ち上がろうとして、足を滑らす。右足のつま先が、意図せぬ勢いで内壁に激突する。凄く痛い。反射的に「ぐあぁぁぁ!」だか「うぉぉぉ!」だったか、もしかすると「アーイェー!」とか「ボ!」だったかもしれないが、とにかくそういった類の奇声を上げ、全裸で一人、うずくまって苦悶した。不意に、壁にかかっている鏡が視界に入る。そこに映っていた自分の顔は、当然のように苦痛に歪んだ表情を浮かべていたのだが、その時、ふと思った。



「これは、誰に見せる顔だ。」



だってそうだろう。そのときの僕は、『風呂に一人』だ。そこでどんなに痛そうな顔をしたところで、「大丈夫?」なんて優しい言葉をかけてくれる人はどこにもいない。当たり前だ。なにしろ、風呂という名の密室に一人である。逆に、誰かの声がしたほうが怖い。下手に後ろを見れない。寝る前とか、思い出すとかなりヤバイ。まぁそれはいいとして、そういった状況下において「痛そうな顔を作っていたこと」がよく分からないのだ。



「そりゃ痛いからだろう。」



あなたはすごい呆れ顔でこう思っていることだろう。「痛いから、痛そうな顔をしていた」、確かに尤もな意見だ。これが「痛いから、物欲しそうな顔をしていた」だったり、「痛いから、泳ぎだしそうな顔をしていた」だったら、多分僕は、然るべき施設に収容され、然るべき処置を受けることになるだろう。そんなことは分かっている。問題は、『密室に一人である』ということだ。表情が感情を伝えるための手段の一つであるとすれば、それは相手がいて初めて有用になるものだろう。ならば、誰にも見せることのない表情なんてものは、そんなもん、つくる必要がどこにあるのか。一つハッキリしているのは、「密室で一人、痛そうな顔をすること」は、死ぬほど無意味だということである。ホントにもう何一つ意味が無い。その上、ひどく無様だ。死んでも見られたくない。これ以上に非生産的なものが他にあるのかと僕は訊きたい。それなのに、僕は確実に表情を作っていた。誰に見せるわけでもなく、必死で「痛そうな顔」をしていたのだった。



そんな「ヒトの神秘」にも触れかねない謎に直面し、僕は一つの結論に達した。表情なんてものは、そもそも、「感情を『伝える』ための手段」なんていう生易しいものではないということだ。感情伝達の意思があろうがあるまいが、意識しなければ表情は知らぬ間に作られてしまう。たとえ密室であっても、つくる意味なんてなくても、勝手に『顔』が感情を目に見える形で発信する。表情とは、極めて一方的に、半ば暴力的に、自分の感情を『分からせる』ための凶器だ。



ということは、つまり、心身共に健全な人は、生きている以上、常になんらかの感情を他人に『分からせ』ながら生活しているということである。別に他人にしてみりゃ知りたくもねぇ【テメェ速報】を、四六時中大声で叫びながら生活しているのと同じだ。ここにはプライバシーなどという概念すら無い。テメェのくだらねぇ感情を、需要もねぇのに常に発信している専門メディアが、テメェのその『顔』だ。今すぐに鏡を見てみろ。たいして特徴も無い、それでいてさぞかし小汚ぇツラが映っていることだろう。その危険物が、常にオートマティックで【テメェ速報】を発信してしまっているという深刻な事態にある。世界中が無法地帯だと言っていい。



そういった『顔』の持つ戦慄の役割について、大抵の人は









 





酷く無自覚だ。



しかし、無自覚ではあるが、無意識にその恐ろしさを知っているし、心の底では畏れている。そして、『顔』を出来る限りコントロールしようと足掻く。平静を保とうと、もがく。その行為こそが現代人を現代人たらしめる最たるものだと考えるが、稀に、極々稀に、それらの一切がコントロール不能に陥り、感情を感情のまま剥き出しにして、『顔』からとんでもない情報を発信しまうことがある。その渦中にある『顔』を見たとき、見せられてしまったとき、見せ付けられてしまったとき、人は思わずこう言ってしまうだろう。



「うわぁー、こいつもろイイ顔!!」と。



つー訳で、「いい顔。」更新しました。